アートの仕事 in Hollywood

ハリウッド・キャラクターデザイナー片桐裕司による、ハリウッド映画の仕事の話、絵や造形の上達の仕方・プロになりたい人などに役立つ情報を発信しています

才能がなければ上達できないのか?

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自分に才能があるかどうか不安だ。
才能がなければ上手くならないのか?
才能がなければ絵や造形、CGの仕事に就けないのか?

これは上達を目指した時、特にプロを目指した時ほとんどの人が一度は考える事だと思います。

私も例外なく若い頃はこの才能の問題に苦しみました。

 

映画の特殊メイクの仕事がしたいという意気込みだけで18歳でアメリカに渡り、才能がなかったらどうしようという不安どころか、私にとってそれは恐怖ですらありました。

ここで言う才能というのは、世間一般で思われている才能の意味合いのことです。

それはおそらく、練習をあまりしなくても初めから上手である、とか、子供の頃から人より抜きん出ていたといったものだと思います。

 

私には決してそのような素質はありませんでした。

 

しかしながら、全くできなかった私が今では結構なレベルのものが出来るようになり、さらには多くの生徒たちを偉そうに指導したりしているわけですが、それは才能があったからかと聞かれても、そんな自覚は全くありません。

 

ここでは才能に関する自分なりの考えを解説したいと思います。

少しでも才能がなくて苦しんでいる人たちの希望になればと思います。

こないだの片桐先生の彫刻セミナー、全員一回でめっちゃ上手くなってたのですが、先生が「上手い人は才能があるわけじゃない」って仰っていた。一時間とって、その説明をされてた。「自分には才能ない」とか、落ち込んでるのは時間もったいないって思う。
ー彫刻セミナー参加者の感想ー
 

 1.才能とは?

あの人は才能があるから出来るんだ。才能があるからすごいんだ。
よく聞く言葉です。

そこで自分を諦めてしまう前に、才能とは何かを分析してみたいと思います。

 ⚫︎どんな人が才能があると言われるか?

人を山に例えてみて、才能があると言われている人ほど高い山という事にします。

世の中にはいろいろな大きさの山があります。

日本国内では、富士山3700m、八ヶ岳2899m、浅間山2568m、阿蘇山1592m。

人は自分より物凄い上手い人に対して、あの人は才能がある、と感じるように思えます。

それは低い阿蘇山から富士山を見てるようなものです。

しかし日本で二番目に高い八ヶ岳から富士山を見たら、それほど高いとは感じないと思います。

つまり自分より少しくらい上手いだけでは、その人に才能はさほど感じない。

高い高いと崇められてる富士山自身はどうでしょうか?

富士山は日本では一番高いですが、世界には倍以上あるとんでもない高さの山があります。

それと比べてしまうと、富士山自信にとっては自分は高いとは思えないのではないかと思います。

才能もそれと似たようなもので、

才能とは

⚫︎そこに届いてない人たちが、見上げてその人を見た時の客観的な評価

という一面があります。

 

そうなるとこの場合の才能とは本質的なものではなく、人によってはあるかないかが変わっていくものになってしまいますね。

 

 ⚫︎どれくらい出来る人が才能があると言われるか?

「山」というのは土の「盛り上がり」が高くなったものですが、どの高さになれば「盛り上がり」が「山」と呼ばれるようになるのでしょうか?

 

ただの「盛り上がり」から見れば、「山」と呼ばれるものは自分には届かない、才能のある人だと思うとすると、「盛り上がり」と「山」、つまり才能のある人とない人の境というのはどのポイントなのでしょうか?

2000m以上が「山」で、1999m以下は「盛り上がり」?

つまり2000m以上が才能ある人で、1999m以下は才能がない人?

ずっと続けられる人が才能がある人だと言う人がいますが、ではどれくらい続ければいいのでしょうか?

10年?

だとしたら、9年11ヶ月と30日でやめたら才能がないと言うことでしょうか?

 

そんな事はありませんね。

多くの人から見らたら、私は才能がある人の部類に入ると思われているかと思いますが、私自身「これが出来るようになったから才能がある人になった」という明確なものがありません。

それよりむしろ才能なんてないと思っています。

才能とは?

⚫︎そこに届いてない人たちが、見上げてその人を見た時の客観的な評価
⚫︎この瞬間に【才能がある人の部類になった】などというポイントは存在しない

ものすごく出来るイコール才能なのかもしれませんが、どれくらい出来るのか?というのは他人と比べた時の客観的な比較でしかないのです。

今は例えとして、【高さ】という数値だけを取り上げました。

スポーツなどは、時間や距離など数値で測れる記録によって優劣が決まりますが、美術はそういう基準は存在しません。

芸術家、もしくはアートの仕事に携わっている人を、今度は山の【形】で例えるとしたら、いろいろな形になると思います。

曲がった山や、穴の開いた山、人の顔の形のような山もあれば、真ん中が裂けてる山があるかもしれません。

曲がった山が才能ある山で、裂けてる山が才能がない山とは誰も言えません。

それは単なる個性であるからです。

どちらが【高い】のか?というのも形が変われば判断は難しくなります。

 

ところが裂けてる山がある時期ものすごく人気が出て多くの人が見物に来た時、その山は才能がある山だと評価されるケースがあります。

芸人だと一発屋とか大勢いますよね。
才能があったからヒットしたのかというと、そうとは限りません。

1年くらいはチヤホヤされて、そのまま消えた人なんて死ぬほどいるのですから。

才能とは?

⚫︎そこに届いてない人たちが、見上げてその人を見た時の客観的な評価
⚫︎この瞬間に【才能がある人の部類になった】などというポイントは存在しない
⚫︎その人が持つ個性を持たない人たちが客観的に眺めた評価で、時代が変わればその評価も変わるかもしれないもの

ゴッホの様に生きていた時は誰にも認めてもらえなかったケースや、若い頃に何か作品をヒットさせて、数年後には忘れ去られた人とか、その様な人たちは若い頃から才能があったとは評価されないでしょう。

才能があるかどうかというのは実はあやふやな事なのです。

しかしながら、出来る人と出来ない人の差は断固として存在します。

それは何故なのでしょうか?

それこそ才能の差なのでしょうか?

2. 才能がなければ上達できないのか?

突然ですが一つ想像してみてください。

あなたが悪の秘密結社に誘拐されたとします。

あなたは監禁されてしまいます。

そこにはベッドがあり、机があり、シャワーがあり、食事は1日3回キチッと差し入れてくれます。

生きる分には何一つ不自由はありませんが、テレビもネットもラジオもありません。

机の上にはスケッチブックと鉛筆、そして石膏像があります。

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そこで秘密結社から指令を受けます。

毎日その石膏像を描け。上手く描けるようになったら出してやると。

他にやることがないので、あなたは絵を描き始めます。

死ぬほど下手くそです。

やることがないので、また描きます。 

さっきよりは少し慣れたけど、まだまだ画力はどうしようもないです。

頑張って3枚ほど描きましたが、上手くならないので描くのをやめて寝てしまいました。

翌日起きても何もやる気が起きません。

また寝ることにしました。

そうするといつも定刻に出される食事が来なくなりました。

腹が減ってしょうがありません。

大声で訴えても何の反応もありません。

仕方ないのでまた絵を描くことにしました。

すると食事が差し入れられました。

どうやらここでは描き続けないと食事がもらえないようです。

死なないためにはとにかく描かなければいけません。

1週間ほど経つと、少し描くのにも慣れてきました。

1日6枚ほど書いたので、40枚を超えています。

それでも手は慣れてきたけど、まだまだ上手いとは言えません。

それからさらに描き続け、1ヶ月が経ちました。

枚数にすると170枚くらい。

170枚も同じ石膏像を描き続けたのです。

途中で、何故上手く描けないんだろうとずっと観察することも増えました。

像を触ったりもしました。

寝るときも考えます。

だんだんとわかることも増え、手も慣れてコントロールができるようになり、目を閉じてもこの像の立体が思い浮かぶようになりました。

何せかれこれ3ヶ月もこれしかやっていないのですから。

ある朝起きると、石膏像が違う象に変わっていました。

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しかしやることは同じです。

観察を重ね、触って、何度も何度も描いてだんだんとそれも描けるようになりました。

そしてそんな生活が3ヶ月、半年と続きました。

まだそこから出してはくれません。

絵を描いた枚数は1000枚を超えています。

さらに月日は流れ、あなたはなんと1年間毎日絵を描き続けたのです。

その時点までに身につけたあなたの絵の技術はどれくらいでしょうか?

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ここまでの状況を想像して、ほぼみんなとてつもなく上達していると普通に思えるのではないかと思います。

(上達してると思えないという人は相当ネガティブだと思うので、まずはその辺から改善した方がいいと思います。笑)

その通りです。

練習を積み重ねれば技術は確実に上達するからです。

よほど脳の機能に問題がないのであれば、これだけのことをやり遂げれば必ずかなりのレベルのことができるようになることは断言できます。

重ねて言います。
これだけの努力をすれば、誰でも必ずかなりのレベルのことが出来る様になります。

だけども積み重ねる過程で多くの人が挫折してしまうのですね。

上の例の様に練習できることなんてまずありえないでしょうから。

自分には才能がないから努力しない。
ゲームをする方が面白いから努力しない。
頑張っても他の人に敵わないから努力しない。
どうせこの世界で仕事できる人なんて一握りなんだから努力しても無駄。

人は努力をしないために、行動を起こさないために実に様々な言い訳を作ります。

そうすると、その言い訳に負けない努力まで必要になってしまいます。

もう大変です。笑

 

この章の答えですが、上の様に積み重ねていくことが出来れば、どんな人でもかなりの上達はできると断言します。

今まで死ぬほど出来ない人をいっぱいセミナーで指導してきました。
その後努力した人は例外なく成長しています。

才能に関係なく誰でもうまくなる事はできるのです。

 

しかしながら歴然として、出来る人と出来ない人の差は存在します。

それは何故なのでしょうか?

3. 本当の才能

3章で書いた例えの様に、歯を食いしばって、頑張って頑張って、色々な事を我慢して出来上がった作品に果たして魅力が出るのでしょうか?

世の中の才能があると言われている人たち、その人たちは我慢に我慢を重ねて努力してきたのでしょうか?

私の意見としては、そうは思いません。

やせ我慢して努力を重ねれば確実に技術は上達します。

それはあくまでも技術です。

しかしアートにはその上にもっと大事なものがあるのです。

それは作品の魅力というものです。

どんなに上手くても、魅力がなければ本当にいい作品とはならないし、決して人気も出ないのです。

そこに本当の才能というものが関わってきます。

才能があると思われている人たち

ある程度の技術を持っている事は絶対条件です。

技術は努力で確実に賄えるものです。

しかし【魅力】は、そこに才能が加わらないと出てこないのです。

 ⚫︎努力の限界

闇雲に努力をすれば、ある程度は上手になります。ある程度の技術力がないと、才能ある人とはなかなか思われないでしょう。

そして闇雲に努力しても、悲しいことにどこかで限界を感じることになります。 

 

私の経験から得たことをお話ししたいと思います。

まずは以前書いた記事を読んでください。

努力の限界を感じ、それを乗り越えた経験です。

続きは次回!

 

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